一九二八年三月十五日

「一九二八年三月十五日」 March 15,1928

作品紹介

1828年2月、日本で初めて行われた普通選挙の直後の3月15日に、立候補した左翼活動家やその応援者たちに下された狂暴な弾圧・拷問の実態を、革命 家、妻「お恵」、娘「幸子」、下級警官などの複眼をもって描き、小樽警察署壁面の落書きが強烈な印象を刻む「一九二八年三月十五日」――――。
小林多喜二のこの作品は、国家権力が自らオカシた国家犯罪を冷静に、スケール大きく告発し、世界が思想評価をこえて近代日本文学の成果として注目した多喜 二のプロレタリア文学゛デビュー作゛です。

 「一九二八年三月十五日」の多喜二のノート原稿には、「我がプロレタリアート前衛の闘志に捧ぐ。」という献辞があり、原稿の末尾には執筆の経過が以下の ように書かれています。
 「一九二八――五、二六から七、一七夜迄。にて完了。『一刀一拝』的に ! 約五十日間。東京から帰って、すぐ筆をとる。七、二一(第一回訂正ヲナス。)八、一七に清書終了。」とある。

 ノートには、作中人物のモデルになった人々の氏名が、小樽警察の留置場周辺の見取図とともに書きのこされている。「龍吉―古川、渡―渡辺、鈴本―鈴木、 阪西―大西、斉藤―鮒田、高橋、石田―X(理想的な人物に、伊藤信二)、柴田―新米、工藤―__ 、佐多―寺田」。「理想的人物に」のところには、「渡―渡辺」と線で結ばれている。以上の人々は、小樽の三・一五事件で検挙された人たちで、当時、作者と も近い関係にあった人々が多い。
 龍吉の古川友一は、一九二七年の秋、小林多喜二が加わった社会科学研究会の主宰者で、労働農民党員、小樽の労働運動にも関係の深い理論家。鈴木源重は、 小樽合同労働組合の委員長であり、また渡のモデルといわれている渡辺利右衛門は、小樽合同の組織部長で、組合の中心的な働き手でした。

 もっとも早く多喜二の作品に注目した中国で、夏衍が1930年2月に発行した『拓荒者』(中国左翼作家連盟)第二期(《小林多喜二的“一九二八年三月十 五日”》,で、「この作は、凶暴で反動的な支配者がいかにこの作品を恐れたかをさらに証明した」、「進んだ司法がいかに反動的役割を果たしたか、牢屋生活 がいかに悲惨か、自由が奪われた人々がいかにこの「修養所」で鉄鋼のような意志を鍛えたか」を描いた。また、作者は「いろいろの欠陥はあるにしても、日本 プロレタリア文学の発達した歴史から見れば、画期的な作品と言っても過言ではない。第一、この作品は偉大な規模で我が国の革命的労働者の生活を描いた。第 二に、死んだ型を描かずに生きた人間を描いた。」と蔵原惟人の評論も紹介した。

 ロシアでは「蟹工船」「一九二八年三月十五日」が国際革命作家同盟機関誌『世界革命文学』ロシア語版第十号に訳載された。抄訳ではあるが前後して、英、 ドイツ・モップル出版所、フランス語版に訳載された。
 ドイツでは、1931年に『一九二八年三月十五日』が、ドイツ・プロレタリア作家同盟との協力で、滞在中の国崎定洞の抄訳で出版しました。裏表紙には 「いかに困難だからといって、社会主義の闘争が挫折したことはかつて一度もなかったし、また今後も決してないだろう。どんな反動勢力でも、労働者・農民の 運動を絶滅させることはできない」という片山潜の言葉があります。
 エスペラント語版としては、貫名美隆訳で『la,marto,1928』(日本エスペラント図書刊行会 06-841-1928)が現在刊行されていま す。

 「一九二八年三月十五日」の原稿は、勝本清一郎の手で保存され、20年後の1948年に原型に復元する底本となりました。勝本は、戦時中この原稿の保存 について心を砕き、特高の家宅捜索と空襲による焼失の両方の危険をさけるために、もとの第一銀行本店の地下室の貸し金庫のなかに置きました。この日本で第 一級の近代的地下設備は直撃の爆弾にも安全だったし、資本主義の制度上、特高の目から絶対に安全な死角となりました。

● このテキストは、『小林多喜二全集 第2巻』(新日本出版社 82年 4725円)を底本に、岩波文庫『蟹工船・一九二八年三月十五日』(515円)を参照しながら当ライブラリーで読みやすい表記に直しました。
● そのほか現在書店で入手できるものとしては『小林多喜二名作ライブラリー 一九二八年三月十五日・東倶知安行』(新日本出版社 94年 1500円)があります。
● 関連推薦作品=中野重治「春さきの風」、五木寛之「戒厳令の夜」、白土三平「カムイ伝」
(佐藤三郎)

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